こうして歯みがきは身近になった

人々の口腔衛生意識を高め、歯みがきの習慣化を促すうえで大きな役割を果たしたのは企業が展開した宣伝、広報活動です。その活動は、強い使命感と企業文化に裏づけられたものでした。

①楽隊や大相撲で歯みがき剤PR大作戦

のぼりを立て全国を回り、歯みがきをPRした楽隊
のぼりを立て全国を回り、歯みがきをPRした楽隊
大盛況を博した回向院大相撲
大盛況を博した回向院大相撲

見物人を集めたにぎやかな楽隊広告

私たちは毎日、当たり前のように歯をみがきます。この歯みがき習慣は、「歯みがき」という商品がつくられ、広く使われるようになって初めて定着しました。歯みがきという商品が、私たちの生活を変えたといってもいいでしょう。
新しく誕生した商品を人々に知らせ、使ってもらうための手段が広告です。
1891(明治24)年に小林富次郎商店(ライオンの前身)を創業した小林富次郎は、広告の大切さをよく理解し、「広告は商品を育てる肥料」と考えていました。といっても、当時の広告といえば新聞広告くらいで、テレビCMもネット広告もありません。そこで、富次郎はユニークな方法を思いつきます。
1896(明治29)年、小林富次郎商店の歯みがき剤第1号「獅子印ライオン歯磨」が発売されると、富次郎は、楽隊を引き連れて全国行脚に出発しました。「ライオン歯磨」と大きく書いたのぼりを押し立て、勇ましい行進曲を演奏しながら町中を練り歩く、というものでした。町のあちこちで口上係が歯みがき剤の効能を名調子で語っている間に、チラシと商品見本を配って回ります。新聞広告だけでは不十分。実物を手に取って、使ってもらうことが狙いでした。当時、珍しかった楽隊広告は、行く先々で見物人を集めました。

歯みがき剤を買えば相撲が見られる!

こうした活動によって、獅子印ライオン歯磨の売れ行きは順調に伸びていきました。富次郎はさらに多くの人に商品を知ってもらおうと、今度は、人気の高い相撲に目をつけました。そして、発売3周年に当たる1900(明治33)年、回向院大相撲を2日間借り切って、無料招待を行いました。新発売の大袋入りライオン歯磨を3個買えば相撲が見られるとあって、約2万人もの来場者が詰めかけました。2万人に歯みがき剤の現物が渡されたのですから、宣伝効果は絶大でした。こうしたアイデアが歯みがき習慣を広めるのに一役かっていたのです。

②芸術家たちがつくった歯みがき広告

童画家・河目悌二が描いた歯みがき絵本(1934年)
童画家・河目悌二が描いた歯みがき絵本(1934年)

広告づくりは芸術家のアルバイト

テレビでは、日々さまざまなCMが流れています。雑誌には、美しい写真やイラストを使った商品広告が掲載されています。広告は魅力的でなければ、消費者の目にとまりません。質が高く魅力的な広告をつくるために、現代の広告制作には、多くの専門家が関わっています。プロデューサーやディレクターが企画立案し、コピーライターがコピーを書き、写真家が写真を撮り、グラフィックデザイナーがデザインします。
でも、こうした広告づくりの専門家が登場するのは、戦後になってからのことです。それまでは、詩人や作家が広告の文案を書き、画家が図案を描いていました。広告制作は、芸術家のアルバイトだったというわけです。
創業当初から広告に力を入れていた小林商店(現・ライオン)は、商業者・小林富次郎の養子だった徳治朗が2代目富次郎を襲名してから、広告にさらに力を入れるようになります。

芸術的センスと創造力を生かして

1913(大正2)年、小林商店に広告部が設置され、それまで社外の専門家に依頼していた広告制作を、社内で行うようになりました。これは当時としては先進的な試みで、広告部員を募集すると、腕に覚えのある専門家が集まってきました。
国文学者の中尾清太郎、北原白秋門下の詩人、大手拓次、商業美術の草分けといわれる濱田増治、童画家の河目悌二、洋画家の北島浅一……。才能豊かな芸術家たちが机を並べて歯みがきの大切さを伝える文案をつくり、子どもたちも親しめるポスターを描き、腕を競っていました。
芸術家たちのセンスや創造力が歯みがきの広告に命を吹き込み、消費者の心を動かし、結果として歯みがき習慣を広めることにつながったことは間違いありません。