人はいつから歯みがきを始めたのか
誰もが毎日、歯をみがく。この習慣がつくられたのはこの100年のことにすぎません。では、それ以前の人々は歯とどうつきあってきたのでしょう。エピソードでつづる口腔保健前史。
⑮歯痛を嘆く芭蕉、養生訓の益軒は落歯知らず
悩む芭蕉とあきらめた一茶
むすびより はや歯にひびく 清水かな
これは、松尾芭蕉の俳句です。おそらく、41~44歳ごろの作。「手で清水すくい口に入れようとすると、その冷たさが歯にしみる気がする」という意味です。「あれあれ、芭蕉は歯周病?」と疑いたくなりますね。さらに、48歳のときにはこんな句も詠んでいます。
衰ひや 歯に喰いあてし 海苔の砂
海苔に混じっていた砂をかんでしまい、歯の痛みに衰えを感じるという句です。歯周病の疑いはいよいよ濃厚です。
じつは、江戸時代の人骨を調査すると、老年期になると歯を維持することができず、ほとんどすべての歯を失ってしまっていることが多いのだそうです。その原因は歯周病にほかなりません。
芭蕉のみならず、晩年にはすべての歯が抜け落ちてしまった小林一茶は、「歯が抜けて あなた頼むも あもなみだ」と、南無阿弥陀仏と念仏を唱えようしても「あもなみだ」になると、おもしろおかしく詠んでいます。さぞや不自由だったことでしょう。入れ歯は使っていなかったようですね。
益軒は83歳にして抜歯なし
一方、『養生訓』などの健康に関する本を著した儒学者・貝原益軒は、83歳で歯を1本も失っていなかったそうです。本の中でこんなことを書いています。
「温湯で口をすすぎ、乾いた塩で上下の歯と歯ぐきをみがき、温湯を含んでもう一度口をすすぐ。毎朝行えば、老いても歯が抜けず、むし歯にもならない。若いときに歯が強いからといって硬いものをかみ割ると、老いてから歯が早く落ちる。楊枝を歯ぐきに深く刺してはいけない。歯根が浮いてしまう。熱湯で口をすすぐと歯を損なう」
ずいぶん具体的で詳細ですが、その効果は、本人の健康が証明済みですね。
ところで益軒は、口をすすぐ、歯をみがくに加えて、第三の方法をすすめています。それは「毎日、時々、歯をたたく事三六度すべし。歯は硬くなり、虫くはず、歯の病なくなる」
これは、たたくというより、歯をカチカチと何回も噛みあわせる方法で、中国伝来の健康法でした。ただし、効果はわかりません。
⑯文明開花とともに歯ブラシ登場。人びとの反応は?
国産第1号の歯ブラシとは?
「鯨楊枝」という言葉からどんなモノが思い浮かびますか? クジラの骨で作った爪楊枝ではありません。これこそ、国産第1号といわれている歯ブラシなのです。
江戸幕府の開国とともに、日本にも西洋の歯ブラシがもたらされました。輸入された歯ブラシは、銀製や骨の柄に、豚や馬の毛を植毛したもの。庶民にとっては高価なものでした。そこでさっそく、国産品の製造が始まりました。
1872(明治5)年に、大阪の角細工商がつくり始めた「鯨楊枝」は、鯨ひげの柄に馬の毛を植毛したもので、インドから輸入された英国製の歯ブラシをまねたものでした。軽くて弾力性があり、プラスチックに似た素材である鯨ひげを柄に使ったところは、なかなかの着眼点。しかし、手本にした英国製歯ブラシは不完全なものだったとか。鯨楊枝は、大阪の小間物屋で販売されましたが、人気を呼んだという記録は見当たりません。
さて、「歯刷子」と書いて「はぶらし」と読みます。ただし、「歯刷子」という名前が使われ出すのは、明治末期のこと。人びとは、歯ブラシのことも、楊枝と呼んでいました。
根強かった房楊枝
じつは、文明開化後も、人びとは馴染みのある房楊枝を簡単には手放そうとはしませんでした。房楊枝は、1回使うと捨ててしまう消耗品なので、簡単で使いやすく感じたのでしょう。それに、まだお歯黒の風習を続けている女性には、歯の手入れに欠かせない必需品でもありました。
ちなみに、明治維新後、お歯黒は古い因習だと考えられるようになり、1870(明治3)年には成人する華族のお歯黒が禁止され、1873(明治6)年には、明治天皇の皇后である昭憲皇太后が率先して、お歯黒を止めました。これを当時の新聞は「長年の伝統を打破」と伝えています。
ところが、その昭憲皇太后は、1914(大正3)年に亡くなるまで、房楊枝を使い続けたました。動物の骨と毛でつくられた歯ブラシを「気持ちが悪い」と嫌ったのだそうです。「着物は女子の行動を制限して不自由である」と発言して積極的に洋服を着た皇太后ですら、歯ブラシは受け入れられなかったのですから、当時は、同じような感覚の人もいたことでしょう。
歯ブラシが本格的に普及するのは大正時代になってからのことでした。