人はいつから歯みがきを始めたのか

誰もが毎日、歯をみがく。この習慣がつくられたのはこの100年のことにすぎません。では、それ以前の人々は歯とどうつきあってきたのでしょう。エピソードでつづる口腔保健前史。

⑬口の中にも職人技 江戸庶民は「歯抜き師」「入れ歯師」が頼り

松井源水の曲独楽の図。『近世職人絵尽』狩野晏川/模写(原本は鍬形薫斎・画)/江戸東京博物館所蔵/Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ
松井源水の曲独楽の図。
『近世職人絵尽』狩野晏川/模写(原本は鍬形薫斎・画)/江戸東京博物館所蔵/Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

西洋医学が入った来たが歯科医学は昔のまま

江戸時代、漢方中心だった日本の医学に変化が現れます。幕府は鎖国政策をとっていましたが、外国文化の吸収が断絶することはありませんでした。そして、蘭学が盛んになっていきます。その中心は、解剖学や外科学をはじめとする西洋医学。杉田玄白たちによって『解体新書』が翻訳刊行されたのは1774(安永3)年のことでした。
けれど、歯科医学には、あまり進歩がありません。『医心房』を書いた丹波康頼を祖とする「口中科」は一子相伝にとどまり、将軍家や朝廷の外に広まることはありませんでした。
抜歯や痛み止めなどは、口中医、歯薬医、牙医とよばれる歯医者たちが行っていましたが、むし歯の処置がどのように行われたかは、わかっていません。

気合いで歯抜き、入れ歯は匠の技で

江戸庶民が頼ったのは、歯抜き師や入れ歯師でした。
「痛いことは一瞬で終わりにしてほしい!」
こんな風に願うのは、今も昔も変わりません。だから、評判を呼んだ歯抜き師といえば、居合いの達人たちでした。大阪の松井源左衛門や江戸の長井兵助は、巧みな口上で人を集めて、居合い芸を見せていました。そして、指で歯を押さえて、気合いを込めて、一瞬にして歯を抜いたといいます。
浅草寺界隈で、独楽(こま)回しの曲芸を見せていた松井源水も、歯薬と歯みがき粉を売り、歯抜きを行っていたようです。そして源水の名は代々、引き継がれていきました。
入れ歯は、もともとは、仏像をつくる仏師が片手間に行っていましたが、江戸時代には、入れ歯師という専門の職業になりました。もちろん、あごの寸法を測って、ひとりひとりに合わせてつくるオーダーメイドです。材料は木。なかでもツゲの木が好まれました。
ところで、庶民の頼りは、ほかにもありました。
それは、神様。
「歯神」が祀られていたり、歯痛治癒の願いをかなえてくれる神社やお寺、お地蔵さんなどが、全国各地にありました。今も、歯痛祈願に人が訪れるところが残っています。東京都文京区の白山神社のように、歯ブラシ供養が行われ続けているところもあります。

⑭歯ブラシの夜明けはヨーロッパから

ヨーロッパの銀の歯ブラシ
ヨーロッパの銀の歯ブラシ
中国・清時代の骨柄の歯ブラシ
中国・清時代の骨柄の歯ブラシ

知っていても使わなかった中国・日本

今では口腔ケアに欠かせない歯ブラシですが、そもそも、いつ、どこで生まれたのでしょうか。
歯ブラシの起源は諸説ありますが、その一つは10世紀中頃の中国説。墓から発見された象牙の柄が、世界最古の歯ブラシの一部だといわれています。ただし、植毛部分が失われていて、はっきりしたことは分かっていません。
13世紀、中国の南宋に留学した道元は、歯ブラシで歯の掃除をしている人を目撃しています。それは、牛の角に、長さ3センチほどに切った馬の尻尾を植えた道具でした。ただし、使っている人は、とても少なかったようです。
道元は、歯ブラシは動物の毛で作られる上、1回ずつ使い捨てるものではないので、楊枝より不浄で、僧侶が使うにはふさわしくないと、書き残しています。

近代歯科学と歯ブラシ

歯ブラシの使用が広まったのは、中国ではなく、近代歯科学が幕を開けたヨーロッパでした。
それまで、ヨーロッパには口腔ケアの発想がなくて、金属製の爪楊枝や鳥の羽軸、あるいはナイフの刃先で、食べかすや歯垢をかき出している程度でした。
ようやく、歯みがきへの関心が高まってきたのは、17~18世紀のこと。上流階級の人々が、歯を銀の器具で、歯ぐきは布で掃除する、布に油をつけてみがくといった方法を取り入れはじめ、それが一般にも広まっていきました。
17世紀のフランスには、獣骨に馬の毛を植えた歯ブラシがありました。イギリス王室の祖先であるハノーファー選帝侯夫人ゾフィーの回顧録にも、歯ブラシを使っているとの記述が残っています。
ただし、歯ブラシは、高価な貴重品でした。馬毛や豚毛、穴熊の毛などが植毛されましたが、それぞれの柔らかさが論議の的にもなりました。
世界最初の歯科医学書を著したフランス人、ピエール・フォシャールは、歯の手入れをしない人が大勢いることを非難しています。そして、歯科医で歯を掃除してもらった後は、自分で毎日、上等な天然スポンジ(海綿)をぬるま湯に浸して、歯をごしごしとみがくことをすすめました。彼は、馬毛の歯ブラシは役に立たないと、否定しましたが、まだ、粗悪なものしかなかったからでしょう。
そして、1780年頃、イギリスのウィリアム・アディスが、歯ブラシの大量製造を始めると、歯ブラシの使い良さから、その利用者は一般の人々へと広がっていきました。