人はいつから歯みがきを始めたのか
誰もが毎日、歯をみがく。この習慣がつくられたのはこの100年のことにすぎません。では、それ以前の人々は歯とどうつきあってきたのでしょう。エピソードでつづる口腔保健前史。
⑪まるでバナナのたたき売り?江戸に響いた歯みがき粉売りの声
新歯みがき粉が次々登場したけれど……
江戸時代になると、歯を白くして口臭を消し去ることがウリの歯みがき粉の製造・販売が盛んになります。庶民は、房楊枝を使わずに、歯みがき粉を指につけて歯をこすることもありました。
ただし、当時の歯みがき粉は、陶土を水でこした上澄みの粒に香料を混ぜてつくられたものが多く、粒子は粗め。粗悪なものだと、歯のエナメル質が削られて、みがくほどに歯がもろくなったといいます。
それでも、人気は上々。工夫を凝らした商品が生まれては、あの手この手で販売されました。
1625(寛永2)年に、江戸の丁子屋喜左衛門が朝鮮伝来の製法を取り入れて売り出した「大明香薬」や、元禄期に創業し今も文京区で商売を続けている「かねやす」の「乳香散」、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』に商品名が登場する「梅紅散」など、種類は数えきれないほどでした。
一方、塩を愛好する者も多く、薬草を混ぜた焼き塩も売られるようになりました。中でも播磨の赤穂の焼き塩は、品質のよさから評判が高まり、歯みがき用焼き塩といえば、赤穂の塩といわれるまでになりました。
「おはようの歯みがき粉売り」は江戸の花
さて、どこからともなく聞こえてくる物売りの声は、江戸の名物。朝、「おはよう、おはよう」と聞こえたら、それは歯みがき粉売りでした。
彼らは、引き出し付きの棚を肩にかけ、毎朝、路地を回り歩いたのです。「おはようの歯みがき売り」は、江戸末期には、市中だけで数百人に上ったといわれます。
人気者もいました。「百眼米吉(ひゃくまなこのよねきち)江戸の花、梅勢散薬歯磨」とかけ声の威勢がよかった百眼米吉は、大恩寺前と書かれた箱と、目が描かれた半面がトレードマーク。歌舞伎役者の物まねや寄席の芸を見せて人びとの笑いを誘い、評判になりました。
寺社の境内などで、巧みな口上で人を集め、芸を見せる歯みがき粉売りにも人気者がいます。松井源水は、浅草寺界隈で独楽(こま)回しの曲芸を見せ、歯薬と歯みがき粉を売っていました。居合い抜きで知られたのは、松井源左衛門や長井兵助。彼らは、歯みがき粉を売るだけでなく、抜歯をしたり、入れ歯をつくったりもしていました。
⑫煙で「虫」をいぶり出す?虫歯の原因が「虫」だった時代
まじないで歯にいる虫を退治
紀元前3000年頃、西アジアに興った古代メソポタミア文明の遺物に「Legend of the Worm(ワームの伝説)」という粘土板があります。天地創造の神話が楔形文字で記されているものですが、そこに、「ワーム(足のない虫)は、歯と歯ぐきにひそみ、歯と血を食べ物にする」と刻まれていました。
つまり、歯痛や虫歯の元凶は、この魔物のような虫。
このため、歯痛の時は、ワームの正体を知っている神官が、神に祈り、まじないをしました。そのうえで、鎮痛作用や麻酔作用があるヒヨスの種を歯ぐきに接合するなどの医療的な処方をしました。ヒヨスは鎮痛、麻酔作用があるナス科の植物です。この他、マンドラゴラ、カラシ、大麻などの薬も使っています。当時は呪術と医療は切り離せるものではありませんでした。
この「ワーム(虫)の伝説」以来、ヨーロッパでは、むし歯の原因は、歯の中に巣食っている歯虫だと信じられてきました。
古代中国にも、「歯を疾やめる虫」という考え方があり、日本でまとめられた『医心方』でも「虫長六、七分、皆黒頭」とその様子を述べています。これはおそらく、むし歯の穴から取り出した、歯の神経だったに違いありません。
「歯虫なんていない」と分かるのは18世紀
さて、歯虫がいるので、むし歯の治療も虫対策を考えたものになりました。ヨーロッパでは、殺虫剤さながらにヒヨスを使って口の中を燻煙する方法が17~18世紀まで行われていました。一方、歯をきれいに掃除して歯虫を取り除いておくという考え方も広まり、結果としては、口腔ケアに役立ったといえましょう。
近代歯科医学の父、フォシャールは、「むし歯の穴や歯石にいる虫なんて見たことがない」と、歯虫の存在には否定的でした。しかし、歯虫説が否定されるのは18世紀の後半から。酸の分泌がむし歯の発生に関わっており、酸の発生は歯垢が原因だと解明され、歯ブラシが口腔ケアの主役になっていきます。