歯みがき習慣がつくられた100年
歯みがき習慣が根付くまでには歯科医師、行政、企業の力を結集した粘り強い取り組みがありました。「むし歯撲滅」から「健康寿命の延伸」へ。目標も時代とともに変化しています。その歩みをたどってみましょう。
③野口英世は歯科私塾出身だった
優秀な人材を集めた明治時代の歯科私塾
野口英世は、子ども用の偉人伝でよく知られた人物です。幼い頃、左手に大やけどを負った英世は、母から「学問で身を立てよ」と教え諭されて育ちました。そこで、懸命に勉強して医者を目指し、20歳で上京します。医学開業試験の前期試験に合格したのはよいのですが、資金を使い果たしてしまい、途方に暮れているところを、高山歯科医学院(現在の東京歯科大学の前身)の血脇守之助に助けられました。
当時、歯科医の数はまだ少なく、歯科医師を目指すには外国語の素養が必要でしたから、歯科医師たちは私塾や勉強会を立ち上げ、全国各地で試験合格を目指した熱心な指導が行われていました。ですから、歯科私塾には優秀な人材が数多く集まっていました。
高山歯科医学院で講師をしていた血脇は、かつて福島へ出張診療に出かけた際に英世と出会い、その才能に感銘を受けていました。そこで、英世に歯科医学院のスタッフとして収入の道を与え、また、左手の再手術を取り計らうなど多大な支援を行ったのです。
歯科私塾から世界的研究者に
英世は、しばらくの間、高山歯科医学院の講師として働きながら、順天堂医院や伝染病研究所にも籍を置くようになります。やがて血脇の援助で渡米、細菌学の研究で頭角を現し、後には黄熱病や梅毒の研究で世界に名を知られるようになりました。
英世の渡米後も2人の交流は続き、1922(大正11)年に血脇が歯科医師会会長として訪米した際は、すでにロックフェラー研究所で名声を得ていた英世が、滞在期間中、付きっきりでガイドを務め、ハーディング大統領への表敬訪問まで実現させました。
福島の小さな農家に生まれ、経済的に恵まれなかった英世は、血脇守之助や高山歯科医学院との出会いがなければ、世界に名を残すことができなかったかもしれません。
④ライオン創業者、小林富次郎のこと
口腔保健活動の先駆者、富次郎
明治時代の子どもたちのむし歯罹患率は96%にも達していました。これに危機感を抱き、口腔衛生思想の普及活動に乗り出した民間企業、それが現在のライオン株式会社の前身である小林富次郎商店でした。
小林富次郎商店を日本初の組織的な口腔保健活動に導いた、小林富次郎とはどんな人物だったのでしょうか。
その経歴を調べると、まず目に入るのが「算盤の聖者」という称号です。熱心な事業家である一方で、涙もろく、情に深く、気の毒な孤児や老人に心からの優しさで接する富次郎は、熱心なクリスチャンで、慈善心にあふれた人物だったと記されています。
富次郎が生まれたのは1852(嘉永5)年。酒造業を営む裕福な家庭の四男として育ちましたが、その半生は、激動の時代に翻弄された苦難の連続でした。20歳を過ぎたころ、家業は没落。裸一貫で上京し、石けん工場に入社、ところが会社は不況で倒産。その後も私財をすべて失うような試練に何度も襲われます。それでも富次郎は、決して諦めずに前を向き続けました。
事業収益は社会に奉仕すべし
富次郎は39歳のとき、東京神田柳原河岸の地に、石けんやマッチの原料を扱う小林富次郎商店を開業しました。そして1896(明治29)年には、歯磨き粉の製造方法を研究して「獅子印ライオン歯磨」を発売します。メーカーとしては後発だったものの、優れた製品品質と巧みな宣伝手法で事業を拡大させていきました。
その一方で富次郎は、「事業収益は社会に奉仕すべし」を事業理念として掲げ、売り上げの一部を福祉施設などの慈善団体へ寄付する「慈善券付ライオン歯磨」を販売するなど、社会奉仕活動にも大いに力を入れました。
富次郎の志は、甥であり二代目・富次郎を襲名した小林徳次郎ら従業員に受け継がれ、今日まで続くライオンの口腔保健活動の源泉となっています。